うさぎドロップの結末が気持ち悪いと言うけれど…
宇仁田ゆみ原作の漫画「うさぎドロップ」の結末、最終回が「気持ち悪い」という意見がある。分からないでもない。うさぎドロップが掲載された月刊誌FEEL YOUNGは、10代後半から20代の女性が購読者の中心。お父さんのパンツと自分の下着を一緒に洗濯するなど有り得ない。父親の加齢臭が生理的に受け入れられない。そのような人にとって、りんの「ダイキチと結婚したい」「ダイキチのこども産みたい」と言う姿には共感出来ず、違和感を覚えるのは当然だろう。ネットで検索すると、この結末に肯定的な意見には「まいんちゃん育成成功」と言っている変態の発言も目立つ。要するに、この結末を受け入れられない読者の頭には「近親相姦」や「ロリコン」という概念が付随しているんだと思われるけど、作者が伝えたかった結論は、そこじゃないと思う。つーか、そこじゃない。なので、そこについて僕の意見を今更だけど書いておきたいと思った。
うさぎドロップはアニメ化されたり実写映画化された前編と、後編は16歳に成長したりんの姿を、中学生時代、高校卒業という時系列を交えながら描く二部構成になっている。前編は、独身貴族を満喫していたダイキチが突如6歳の女の子の保護者となり子育てに奮闘する日常が微笑ましく、実際に母親である宇仁田先生が描くりんやコウキが可愛く愛おしくてたまらない。そして原作者が前編に込めたメッセージは、結婚や離婚、シングルマザー、シングルファザーにとっての実状、倭国社会の現状などなど、誰が読んでも共感出来る内容が切実に描かれている。だから人気を呼び映画化され、アニメ化されたのだ。そんなことは今更語るまでもない。だけど、アニメうさぎドロップの続編は制作されない。10年経った今でも、その予定はない。うさぎドロップの後編は中盤辺りから雲行きがあやしくなり、意外な結末を迎える。連載当初から定期購読し、りんやダイキチと共に歩んで来た愛読者は「作者に裏切られた」と叫び、最終話を「気持ち悪い」と拒絶した。だからアニメの2期を作っても収益は望めないのである。非常に残念だ。いい話なんだけどね。気持ち悪いと言われているのは、りんなのか? 作者なのか? たぶん、ダイキチだろう。でも、僕にとっては、麗しいコウキママに抱きついたダイキチの横顔の方が数倍気持ち悪いんですけど。
僕の年齢は、原作者の宇仁田先生より少しお兄さんという感じ。当然ながら連載漫画を読みあさる歳でもなく、そのような職業でもない。アニメうさぎドロップを観たのは放送当時。今から10年くらい前。その後も何回か繰り返し観ていた。で、最近になって続編が気になり検索したら、Googleの「よく似ている検索」に「うさぎドロップ 気持ち悪い」「うさぎドロップ 作者 死亡」と出る。なんで? 宇仁田先生、生きてますよ? 陰謀論なのだろうか? 炎上したのだろうか? やたら気になった。なので、単行本を大人買いして一気読み。それが功を奏したのか、僕がオジサンだからなのか。いずれにせよ、気持ち悪いという感想には至らなかった。そんで、10巻の終わりに掲載されたインタビューを読んで、なんとなくだった感想が確信に近いものに変わった。その中で宇仁田先生は「着地点は最初から決めていた」と申しています。コレ「作者が欲を出した」とか「血縁無いはこじつけ」などと言う読者に対する火消しのようにも受け止められるけど、そうじゃない。嘘じゃない。だって、最初から着地点決まってないと、ダイキチのキャラクター設定は不可能だ。仮にダイキチが、さやかちゃんのパパみたいなイケメンだと、なんかモヤモヤする。メガネのデブだと、キモヲタみたいになってしまう。顔はイマイチだが長身で、元野球部の体育会系。中国語も話せるバリバリの営業マン。女子供は苦手だが、心優しい大人の男性。不器用だけど誠実な人。そんな感じの俳優さん、昭和に居たなぁ…。
うさぎドロップのストーリーを昭和の脳ミソでイメージすると、「パパと呼ばないで」と「おくさまは18歳」を合体させた感じ。どちらも高視聴率を叩き出した人気ドラマで、何回も再放送された作品。我々の世代なら、知らない人は居ないはずだ。その両者に共通するのが俳優の石立鉄男さん。「薄汚ねぇシンデレラ」のアレじゃなくて、「水もれ甲介」に見るような、ドジでマヌケでブサイクだけど「心が熱いアンチャン」的なソレ。この石立鉄男さんのイメージをもう少しカッコよくすると、中村雅俊さんが思い浮かぶ。そのイメージが、ダイキチにピタリとハマる。お分かり頂けるだろうか? 若い人には、無理だな。要するに、「いい男」ってヤツですよ。で、そんなダイキチとりんの年の差婚を考えると、もっと古い時代の「許嫁制度」が思い浮かぶ。最近描かれたドラマだと、連続テレビ小説「あさが来た」が記憶に新しい。この許嫁という親同士が決めた政略結婚のような話だと、「幼稚園の年長さんと大学生が将来結婚します」「小さかった頃は優しいお兄ちゃんが沢山遊んでくれました」みたいな話は普通にありましたそうな。なので、りんとダイキチの結婚は、すんなり抵抗なく受け入れられたりする。
さて、そんな昭和なダイキチに対して、りんちゃんはどうでしょう。後編の冒頭でダイキチは「お前はアレだなー。ナリはアレだけど、中身はおばあちゃんみたいだなー。朝っぱらからシャンとしやがって」と悪態づく。その背筋伸ばして正座する姿見て、ピンと来ました。りんのその名は、リンドウの「りん」なのですが、凛とした「りん」でもある訳です。その容姿は松本零士さんが描く女性、メーテルのような、北欧の金髪美人のような美しさ。身長169cm。スレンダーなモデル体型。ふくらはぎパンパンな女子高生からすれば、憧れの女性像です。そしてその中身は、宮崎アニメに登場する女性のような、風の谷のナウシカのように、清く正しく美しい女の子。迷惑メールに困窮し、出した答えが「これ、要る?」だ。これは強い。その後、中高生のマストアイテム携帯電話(今ならスマホ)を川に投げ捨てようとする。その後姿に惚れる。紅璃先輩に対して敬語で論破する。でも、彼女なりの生きる強さには敬意を払う。宮本武蔵だな、この人。
うさぎドロップの殆どの女性読者は、少女漫画を読んで来ている。恋に恋する少女達は、付き合う別れる告白するで揺れ動き、頬を赤く染めながら大きな瞳に涙があふれて、キラキラふわふわ輝いている。なんか色々飛んでいる。柔らかそうなのが、いっぱい浮かんでいる。だけど、16歳のりんは涙を流さない。たくさん泣いているのだけれど、その泣き顔を絶対に見せない。作者はあえて、りんの泣き顔を描かない。パヤパヤしてる麗奈は、典型的な少女漫画の登場人物。そんな麗奈が、りんの姿を引き立てる。紅璃先輩の生き方は、りんの強さを浮き上がらせる。恋に恋しない鹿賀りん16歳。うさぎドロップは少女漫画に対するアンチテーゼなのだろうか。宇仁田先生は今を生きる女子達に、なにかを伝えようとしているぞ。そういえば、アニメで丸ごと削除された仕事に恋に結婚に不真面目な新入社員の織田さん、あんな女がバブルの頃にはウヨウヨ居たな。少し昔に給食費払わない母親達が問題になったけど、アッシー君だのメッシー君と言っていたあいつらが、そいつらだ。チョット前には「男が奢るべき論争」てのがあったけど、男尊女卑だの女性蔑視だセクハラだと文句を言うなら、都合よく女を使うなと問いたい。私情が混じって少し話が逸れてしまったけど、うさぎドロップを少女漫画の延長線で読んではいけない。そうすると「月刊漫画ガロ」を読んだ後のように、迷宮に入り込んでしまう。うさぎドロップの結末にSEXを持ち込んではいけない。そうすると、たちまち誤読する。ダイキチはコウキママと、りんはコウキと結ばれれば良かったのにと不平不満を言ってはいけない。それって、あなたの願望ですよね。そういう人は、最初の1話から読み返してみて欲しい。りんの気持ちも考えず、自分達の都合ばかり考えていたダイキチの親戚連中。あなたは、その人達と同じではありませんか? 受け入れられないからと言って、捨ててしまうのですか?
小さい女の子が「大きくなったらパパのお嫁さんになるの」と言うその感情に、SEXなど存在しない。お父さんとは結婚出来ないんだけど、その気持には、なんの矛盾もない。本当にパパが好きなだけだ。周囲の人もパパも「可愛い」と言って笑っている。そのことを気持ち悪いと言う人なんて誰も居ない。その子にとって父親は、自分の気持を分かってくれる人。自分のことを、ちゃんと見ていてくれる人。優しく大きく暖かく包み込んでくれる確かな存在です。で、この言葉、りんが最終回で実際に「小さい頃おじいちゃんと結婚するつもりだった」と述べている。だけど、思春期の娘は父親を嫌う。臭い汚いと拒絶する。残酷だ。倭国のお父さん、かわいそう。
私達は家族や親族を語るとき、血の繋がりを考えます。だけど、家族は他人と他人が結婚しないと生まれません。そう、家族の始まりは、他人からなんです。人は幸福を望んで結婚し子を育て、家庭を築きます。だけど、それがなかなか上手く行かない。そこに想うのが、りんの存在。おじいちゃんに育てられたので、玄関での靴の脱ぎ方から食事の作法まで、厳しく躾けられている。好きなお菓子は野菜カステラ。市民プールでは、おばあちゃん友達と雑談。一見笑えるエピソードだけど、ここに意味がある。この人、古い倭国人です。古い倭国の貞操観念。「一生に一人の男性だけに添い遂げる」という考え。それは男性から押し付けられた「純血」ではなく、女性から見た「純愛」という考え。これを前面に押し出してしまうと、説教じみてカビ臭くなるから作者は描かない。僕も書いててケツの座りが悪い。でも、そういう美学は確かにある。りんはコウキに抱きしめられ「そっち側は たのしい・・・?」と言う。この「そっち側」とは、どこだろう。たくさん恋をして理想の人と巡り合う。それが今の主流だけど、我がままになってやしないか、それで自分本位になっていないだろうか。俺物語!! の「結婚してくれ!!」「はい!!」は痛快だった。そういう理想は、確かにある。大和撫子ここに在り。
うさぎドロップには様々な形の家族が登場し、それぞれの問題が浮き彫りにされて行く。それが緻密な心理描写、節々に記された印象的な言葉の数々で描かれている。女性漫画家が描く秀作は、読んでいて本当に楽しい。かなりしっかりしたストーリーボードと人物相関図を作らないと、この漫画は描けないと思う。「ラストが駆け足で終わった」と言う読者の感想が多いけど、クライマックスとはそんなもの。あえて急転直下にしてあるんです。うさぎドロップの結末は最初から決まっていて、その着想はシンプルなものから始まっているのかもしれない。うさぎドロップは宇仁田ゆみ版「あしながおじさん」なのかな。悲しい別れのない「鶴の恩返し」なんだろうか。常識やタブーを打ち破るりんちゃんは変態ですか? ダイキチはロリコンでしょうか? うさぎドロップは表面上、ライフスライスやラブストーリーに見えるけど、そのストーリーの根幹は、もっと深いところにある。
それにしても、やはり最後まで問題となるのがダイキチだ。りんにグイグイ迫られても、カメラ目線で読者の視線を気にしている。40過ぎの、そいつと俺を行ったり来たり、自問自答を繰り返す。母ちゃんに、なんて説明したらいいか悩む。耳の後ろを死にものぐるいで洗う。りんは「高嶺の花」だと決め込んでも、しましまパンツで締まらない。こうして読むと、うさぎドロップは最後の最後まで笑える。泣ける。うさぎドロップは予想外な結末を迎えたが、そもそもスタートが想定外なのだ。おじいちゃんの宗一が標したキンモクセイの道は、最初からここに繋がっていたのかもしれない。りんはダイキチの子供を産みたいと言う。「絶対にその子のことを幸せにするの、わたしみたいにね」と言う。その言葉にダイキチは報われ、涙する。たぶんダイキチは、その後りんに抱っこしてもらったんだろう。ダイキチが宗一の境地に到達するのに、半世紀の時は掛からないはずだ。覚悟して観念しろダイキチ。どうせお前には、りんを拒むとか絶対無理なんだから。二谷さんも、みっちゃんやナベちんも、出荷部の同僚も後藤さんも、ダイキチを知る人なら皆んな分かってくれるはず。ダイキチはダイキチでいい。心配ないよー。というのが僕の感想。うさぎドロップとは、そういう作品。じゃないとストーリーとしておかしい・・・と・・・思う。僕の考えは間違ってない・・・ハズ・・・。たぶん・・・。
うさぎドロップはアニメ化されたり実写映画化された前編と、後編は16歳に成長したりんの姿を、中学生時代、高校卒業という時系列を交えながら描く二部構成になっている。前編は、独身貴族を満喫していたダイキチが突如6歳の女の子の保護者となり子育てに奮闘する日常が微笑ましく、実際に母親である宇仁田先生が描くりんやコウキが可愛く愛おしくてたまらない。そして原作者が前編に込めたメッセージは、結婚や離婚、シングルマザー、シングルファザーにとっての実状、倭国社会の現状などなど、誰が読んでも共感出来る内容が切実に描かれている。だから人気を呼び映画化され、アニメ化されたのだ。そんなことは今更語るまでもない。だけど、アニメうさぎドロップの続編は制作されない。10年経った今でも、その予定はない。うさぎドロップの後編は中盤辺りから雲行きがあやしくなり、意外な結末を迎える。連載当初から定期購読し、りんやダイキチと共に歩んで来た愛読者は「作者に裏切られた」と叫び、最終話を「気持ち悪い」と拒絶した。だからアニメの2期を作っても収益は望めないのである。非常に残念だ。いい話なんだけどね。気持ち悪いと言われているのは、りんなのか? 作者なのか? たぶん、ダイキチだろう。でも、僕にとっては、麗しいコウキママに抱きついたダイキチの横顔の方が数倍気持ち悪いんですけど。
僕の年齢は、原作者の宇仁田先生より少しお兄さんという感じ。当然ながら連載漫画を読みあさる歳でもなく、そのような職業でもない。アニメうさぎドロップを観たのは放送当時。今から10年くらい前。その後も何回か繰り返し観ていた。で、最近になって続編が気になり検索したら、Googleの「よく似ている検索」に「うさぎドロップ 気持ち悪い」「うさぎドロップ 作者 死亡」と出る。なんで? 宇仁田先生、生きてますよ? 陰謀論なのだろうか? 炎上したのだろうか? やたら気になった。なので、単行本を大人買いして一気読み。それが功を奏したのか、僕がオジサンだからなのか。いずれにせよ、気持ち悪いという感想には至らなかった。そんで、10巻の終わりに掲載されたインタビューを読んで、なんとなくだった感想が確信に近いものに変わった。その中で宇仁田先生は「着地点は最初から決めていた」と申しています。コレ「作者が欲を出した」とか「血縁無いはこじつけ」などと言う読者に対する火消しのようにも受け止められるけど、そうじゃない。嘘じゃない。だって、最初から着地点決まってないと、ダイキチのキャラクター設定は不可能だ。仮にダイキチが、さやかちゃんのパパみたいなイケメンだと、なんかモヤモヤする。メガネのデブだと、キモヲタみたいになってしまう。顔はイマイチだが長身で、元野球部の体育会系。中国語も話せるバリバリの営業マン。女子供は苦手だが、心優しい大人の男性。不器用だけど誠実な人。そんな感じの俳優さん、昭和に居たなぁ…。
うさぎドロップのストーリーを昭和の脳ミソでイメージすると、「パパと呼ばないで」と「おくさまは18歳」を合体させた感じ。どちらも高視聴率を叩き出した人気ドラマで、何回も再放送された作品。我々の世代なら、知らない人は居ないはずだ。その両者に共通するのが俳優の石立鉄男さん。「薄汚ねぇシンデレラ」のアレじゃなくて、「水もれ甲介」に見るような、ドジでマヌケでブサイクだけど「心が熱いアンチャン」的なソレ。この石立鉄男さんのイメージをもう少しカッコよくすると、中村雅俊さんが思い浮かぶ。そのイメージが、ダイキチにピタリとハマる。お分かり頂けるだろうか? 若い人には、無理だな。要するに、「いい男」ってヤツですよ。で、そんなダイキチとりんの年の差婚を考えると、もっと古い時代の「許嫁制度」が思い浮かぶ。最近描かれたドラマだと、連続テレビ小説「あさが来た」が記憶に新しい。この許嫁という親同士が決めた政略結婚のような話だと、「幼稚園の年長さんと大学生が将来結婚します」「小さかった頃は優しいお兄ちゃんが沢山遊んでくれました」みたいな話は普通にありましたそうな。なので、りんとダイキチの結婚は、すんなり抵抗なく受け入れられたりする。
さて、そんな昭和なダイキチに対して、りんちゃんはどうでしょう。後編の冒頭でダイキチは「お前はアレだなー。ナリはアレだけど、中身はおばあちゃんみたいだなー。朝っぱらからシャンとしやがって」と悪態づく。その背筋伸ばして正座する姿見て、ピンと来ました。りんのその名は、リンドウの「りん」なのですが、凛とした「りん」でもある訳です。その容姿は松本零士さんが描く女性、メーテルのような、北欧の金髪美人のような美しさ。身長169cm。スレンダーなモデル体型。ふくらはぎパンパンな女子高生からすれば、憧れの女性像です。そしてその中身は、宮崎アニメに登場する女性のような、風の谷のナウシカのように、清く正しく美しい女の子。迷惑メールに困窮し、出した答えが「これ、要る?」だ。これは強い。その後、中高生のマストアイテム携帯電話(今ならスマホ)を川に投げ捨てようとする。その後姿に惚れる。紅璃先輩に対して敬語で論破する。でも、彼女なりの生きる強さには敬意を払う。宮本武蔵だな、この人。
うさぎドロップの殆どの女性読者は、少女漫画を読んで来ている。恋に恋する少女達は、付き合う別れる告白するで揺れ動き、頬を赤く染めながら大きな瞳に涙があふれて、キラキラふわふわ輝いている。なんか色々飛んでいる。柔らかそうなのが、いっぱい浮かんでいる。だけど、16歳のりんは涙を流さない。たくさん泣いているのだけれど、その泣き顔を絶対に見せない。作者はあえて、りんの泣き顔を描かない。パヤパヤしてる麗奈は、典型的な少女漫画の登場人物。そんな麗奈が、りんの姿を引き立てる。紅璃先輩の生き方は、りんの強さを浮き上がらせる。恋に恋しない鹿賀りん16歳。うさぎドロップは少女漫画に対するアンチテーゼなのだろうか。宇仁田先生は今を生きる女子達に、なにかを伝えようとしているぞ。そういえば、アニメで丸ごと削除された仕事に恋に結婚に不真面目な新入社員の織田さん、あんな女がバブルの頃にはウヨウヨ居たな。少し昔に給食費払わない母親達が問題になったけど、アッシー君だのメッシー君と言っていたあいつらが、そいつらだ。チョット前には「男が奢るべき論争」てのがあったけど、男尊女卑だの女性蔑視だセクハラだと文句を言うなら、都合よく女を使うなと問いたい。私情が混じって少し話が逸れてしまったけど、うさぎドロップを少女漫画の延長線で読んではいけない。そうすると「月刊漫画ガロ」を読んだ後のように、迷宮に入り込んでしまう。うさぎドロップの結末にSEXを持ち込んではいけない。そうすると、たちまち誤読する。ダイキチはコウキママと、りんはコウキと結ばれれば良かったのにと不平不満を言ってはいけない。それって、あなたの願望ですよね。そういう人は、最初の1話から読み返してみて欲しい。りんの気持ちも考えず、自分達の都合ばかり考えていたダイキチの親戚連中。あなたは、その人達と同じではありませんか? 受け入れられないからと言って、捨ててしまうのですか?
小さい女の子が「大きくなったらパパのお嫁さんになるの」と言うその感情に、SEXなど存在しない。お父さんとは結婚出来ないんだけど、その気持には、なんの矛盾もない。本当にパパが好きなだけだ。周囲の人もパパも「可愛い」と言って笑っている。そのことを気持ち悪いと言う人なんて誰も居ない。その子にとって父親は、自分の気持を分かってくれる人。自分のことを、ちゃんと見ていてくれる人。優しく大きく暖かく包み込んでくれる確かな存在です。で、この言葉、りんが最終回で実際に「小さい頃おじいちゃんと結婚するつもりだった」と述べている。だけど、思春期の娘は父親を嫌う。臭い汚いと拒絶する。残酷だ。倭国のお父さん、かわいそう。
私達は家族や親族を語るとき、血の繋がりを考えます。だけど、家族は他人と他人が結婚しないと生まれません。そう、家族の始まりは、他人からなんです。人は幸福を望んで結婚し子を育て、家庭を築きます。だけど、それがなかなか上手く行かない。そこに想うのが、りんの存在。おじいちゃんに育てられたので、玄関での靴の脱ぎ方から食事の作法まで、厳しく躾けられている。好きなお菓子は野菜カステラ。市民プールでは、おばあちゃん友達と雑談。一見笑えるエピソードだけど、ここに意味がある。この人、古い倭国人です。古い倭国の貞操観念。「一生に一人の男性だけに添い遂げる」という考え。それは男性から押し付けられた「純血」ではなく、女性から見た「純愛」という考え。これを前面に押し出してしまうと、説教じみてカビ臭くなるから作者は描かない。僕も書いててケツの座りが悪い。でも、そういう美学は確かにある。りんはコウキに抱きしめられ「そっち側は たのしい・・・?」と言う。この「そっち側」とは、どこだろう。たくさん恋をして理想の人と巡り合う。それが今の主流だけど、我がままになってやしないか、それで自分本位になっていないだろうか。俺物語!! の「結婚してくれ!!」「はい!!」は痛快だった。そういう理想は、確かにある。大和撫子ここに在り。
うさぎドロップには様々な形の家族が登場し、それぞれの問題が浮き彫りにされて行く。それが緻密な心理描写、節々に記された印象的な言葉の数々で描かれている。女性漫画家が描く秀作は、読んでいて本当に楽しい。かなりしっかりしたストーリーボードと人物相関図を作らないと、この漫画は描けないと思う。「ラストが駆け足で終わった」と言う読者の感想が多いけど、クライマックスとはそんなもの。あえて急転直下にしてあるんです。うさぎドロップの結末は最初から決まっていて、その着想はシンプルなものから始まっているのかもしれない。うさぎドロップは宇仁田ゆみ版「あしながおじさん」なのかな。悲しい別れのない「鶴の恩返し」なんだろうか。常識やタブーを打ち破るりんちゃんは変態ですか? ダイキチはロリコンでしょうか? うさぎドロップは表面上、ライフスライスやラブストーリーに見えるけど、そのストーリーの根幹は、もっと深いところにある。
それにしても、やはり最後まで問題となるのがダイキチだ。りんにグイグイ迫られても、カメラ目線で読者の視線を気にしている。40過ぎの、そいつと俺を行ったり来たり、自問自答を繰り返す。母ちゃんに、なんて説明したらいいか悩む。耳の後ろを死にものぐるいで洗う。りんは「高嶺の花」だと決め込んでも、しましまパンツで締まらない。こうして読むと、うさぎドロップは最後の最後まで笑える。泣ける。うさぎドロップは予想外な結末を迎えたが、そもそもスタートが想定外なのだ。おじいちゃんの宗一が標したキンモクセイの道は、最初からここに繋がっていたのかもしれない。りんはダイキチの子供を産みたいと言う。「絶対にその子のことを幸せにするの、わたしみたいにね」と言う。その言葉にダイキチは報われ、涙する。たぶんダイキチは、その後りんに抱っこしてもらったんだろう。ダイキチが宗一の境地に到達するのに、半世紀の時は掛からないはずだ。覚悟して観念しろダイキチ。どうせお前には、りんを拒むとか絶対無理なんだから。二谷さんも、みっちゃんやナベちんも、出荷部の同僚も後藤さんも、ダイキチを知る人なら皆んな分かってくれるはず。ダイキチはダイキチでいい。心配ないよー。というのが僕の感想。うさぎドロップとは、そういう作品。じゃないとストーリーとしておかしい・・・と・・・思う。僕の考えは間違ってない・・・ハズ・・・。たぶん・・・。